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会場へ運ぶ足取りがいつもと違った。
心がはやる。
30数年前、駆け出しの音楽記者だった自分が初めて取材することになった歌手、それがまさに彼、松山千春だったのだ。その名前から当初は女性歌手と間違えたことも懐かしい。現れたのはやせた、鋭い目つきの若者だったが、年頃の変わらない自分にタメ口で「俺、売れるべか?」と聞いてきたことも忘れられない。いつもSTV放送局の階段のところでギターを抱えて曲を作っていたのを覚えている。
あれからいくつもの歳月が過ぎ去り、全国区の人気者へと駆け上がっていった千春は、昨年(2012年)歌手生活35周年を迎えたが、円熟味だとか重厚感といった単語などどこ吹く風とでも言うように、相変わらずのトークで沸かせ、歌で酔わせ千春節健在を誇示する。そこにはビジュアルの変化とは別に、足寄からでてきたときから少しも変わっていない、フォークシンガー松山千春が存在する。そのことの嬉しさに観客は熱狂するのだ。千春のファンだけではない。あの頃、北海道から次々とミュージシャンが誕生したのを覚えている世代にとって、この舞台はおのれの記憶を遡るように青春の一ページを思い起こすに違いない。自分にとってもそれは同じことなのだ。千春を育てたSTVラジオの故・竹田健二ディレクターはじめ、実際の登場人物一人一人のほとんどが、まさに自分が関わってきた業界人であり関係者だったので、一つの舞台作品を見ると言うより自分がこの目で見てきた歌手、松山千春の誕生を、まるで追体験するように味わうことになった。
千春が23歳の時に書いた自伝的小説「足寄より」を元にした舞台「旅立ち―足寄より―」。2008年には大東俊介主演で映画化されたこともある同作品の舞台化に当たり、主役はオーディションで823人の中から自己紹介、意気込み、松山のデビュー楽曲『旅立ち』の弾き語り、セリフの一部の演技審査で選出されたという。
主役の千春を務めるのは三浦祐太朗。三浦友和、百恵夫妻の長男にして、元Peaky SALTのヴォーカル。これが演技初挑戦だった。2012年の7月から赤坂の草月ホールで9公演が行われたが、今年はキャストも一新、2月の名古屋公演を皮切りに全国7都市・全19公演がスタートした。初回の名古屋では観客総立ちの大合唱という話も飛び込んできた。きっと行く先々で巻き起こってきたに違いない感動と興奮の嵐を想像するだに、期待はいやがうえにも膨らんでいく。そしてついにやってきた、その千秋楽に当たる4月3日の札幌公演に足を運んでみた。
様々な思いが渦巻く心の整理もつかないままに客席に身を埋めていると、いつしか周囲のざわめきは消え、場内の照明が落ちる。と、舞台の上に千春がいるではないか。北海道弁丸出しの台詞が飛び交う舞台を、三浦祐太朗演ずる松山千春は生き生きと動きまわっている。貧しさの中、歌手への夢と一本のギターを手に足寄から出てきた痩せた若者は、様々な人々と出会い、挫折や屈辱も味わいながら人とのふれあいの中で絆や別れを経験し、夢への一歩を大きく踏み出すことになる。演じる祐太朗の台詞は、そのまま千春や青春の真っただ中でもがく若者の言葉となり、見る者の胸に正面からぶつかってくる。決して甘くない、けれど苦いばかりでもない、誰しもが一度ならず通り抜ける、苦しいけれど大切な一時期を、千春の青春を借りてくっきりと描き出している。演技だけではなく、千春得意のツーフィンガーのアルペジオもそっくりに歌う「旅立ち」、「足寄より」や「オホーツクの海」、「初恋」は懐かしさを超えて、もはやあの頃に戻ったかと錯覚するようだ。良く伸びる高音は胸の奥で眠りについた熱いものを揺り動かす力がある。みずみずしさと少しばかりの危うさを含んだ、切ないまでにまっすぐな歌唱が、言葉の力を良く伝えている。あのころ千春の歌に激しく情緒を揺さぶられた者ばかりでなく、今初めてこの歌を聴く者の心の扉も叩いてくるようで、舞台に向けられる眼差しは老いも若きもひたすら三浦裕太郎に注がれている。彼らの中で千春=祐太朗というより、舞台の上の一人の若者がそのまま観客一人一人の青春の投影図になったようだ。
竹田ディレクター演じる金子昇(イケメン過ぎるきらいもあるが)も千春の父親を演じる杉田二郎(声がいい!)も、圧倒的なリアリティーを持って迫ってくる。ステージ・バックに設けられた大型スクリーンに、足寄町内や高校で撮影したシーンを映し出して舞台上の演技とシンクロさせ、千春の生い立ちや学生時代などの時空間に臨場感を持たせる尾西兼一氏の脚本、赤羽博氏の総合演出が絵空事でない旅立ちのドラマをグッと引き締めていた。
ふと気がつくと、誰もが一緒に歌っている。頬を上気させ、あるいは涙をうかべながら、舞台によせてというより、年配層は己の青春に向けてはるかに思いをはせ、若い人は共感のあまり、それぞれが胸に迫るものに衝き動かされて歌っている。その大合唱の渦は会場から立ち上る大きな感動のオーラのようだ。ラストは1977年8月27日、ファーストコンサート「旅立ち」の函館公演のあった朝、育ての親とも言うべき竹田ディレクターが急性心不全のため36歳の若さで急逝した事実を知った千春が、その悲しさを胸に秘めながら竹田が好きだったバラの花一輪を脇に置き、竹田との思い出がつまったデビュー曲「旅立ち」を涙ながらに引き語りで歌い切るシーンだった。 あまりに深い余韻に誰もがしばらく動けなかった。一呼吸置き全員がスタンディング・オベーション、鳴りやまないカーテンコール。ステージ上に出演者全員が登場し、一人一人が今回のステージに賭ける想い、観客への感謝を語っていたが皆その目には光るものがあった。ここで大きなサプライズ、何と松山千春本人が千秋楽に駆けつけ舞台を観ていたのだ。竹田ディレクター役の金子昇が「実はこの会場に松山千春さんが来ています」と言うと、「オォー」とどよめき、最後列の千春がピンスポットの中立ち上がり一礼そのまま舞台に上がり挨拶をした。往時の自分が舞台に重なったのだろう、やはり胸に熱いものが込み上げるのを抑え切れないようだった。
どれだけの時間が過ぎたのか。上演時間よりはるかに長い時間を過ごしたような充足感が会場をあとにしても続く。千春のすごさの向こう側に、まぎれもなく三浦祐太朗が生み出した感動が存在していた。どれだけ千春に近づけるかではなく、千春を演じる三浦祐太朗が自身を認めさせるに充分な演技であり、歌であり、共演者たちの熱演であり、その全てで舞台の成功を導きだしたのだ。それはかつて北の地に一人の歌手が誕生したのを見届けたように、この舞台の上に三浦祐太朗というスターの誕生を見届ける瞬間でもあった。しばしの放心の後にじわじわと立ち上ってくるその感動をかみしめながら家路についた。
この感動をこのままにしておくのはもったいない。一人でも多くの人の目に触れるよう、再演が全国で行われるよう切に願う。そして何度足を運んでも、そのたび新たな感動が呼び起こされるのを確信している。
(文:音楽ジャーナリスト 内記 章:2013年4月3日、夜)
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