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まぎれもなく歌手である。
その昔、白い嵐吹き荒れる中、R(ルート)231を北へ走った。
みのや雅彦の故郷、羽幌で行われるデビュー・イベントを見届けるために。
31年前のことである。 松山千春への憧れからこの道に踏み入った一人の青年は、
髪は銀色に、胸板は厚く、押しも押されもせぬ一人の歌手として今、
リアルライブツアー2012『胸いっぱいの人生』の最終日、
道新ホールのステージに立っている。
ライトが照らし出すみのや雅彦の姿は、シンガーソングライターと言うよりもプロレスラーだと言われれば納得してしまう。しゃべりのやたら上手い構成作家だと言われてもそうかもしれないと思ってしまう。ましてやどこかの劇団員が裸足で逃げ出しそうな一人芝居をやってのける舞台俳優だとか、松山千春本人が乗り移ったように、つま先まで神経の行き届いたモノマネ芸人(実際薄気味悪いほど似てる)だとしても、いちいち頷いてしまうほどの達者ぶりは、歌手には本来必要ないものかもしれない。
それを持てる体躯や巧みな話術で、客席を自在に沸かせたり、ひきつけたり、あるいはステージ狭しと暴れまわるだけでは飽き足らず、なんでも器用にこなしてしまうからといって、あざといと言うだろうか。小賢しいと憂うだろうか。いや、そうではない。
みのやの場合、何をやってもその頂点(ピーク)に歌がある。悲しい話につけ、面白いエピソードにつけ、歌に至る助走として客席を自分のフィールドへ容易に引きずりこむ、ツールの一つ一つが並はずれて面白く、出来が良すぎるきらいがある。しかし、ひとたび歌いだせば一切がその助走に過ぎず、何より歌が雄弁にいくつものドラマをたちどころに描き出すのである。詞の力、曲の力、声の力、すべてのベクトルが指し示す先、“輝きたい”との夢を抱き、まだ旅の途中だというみのやの、確かに輝いている一瞬をステージの上に認めた。
会場を埋める観客の年齢層は高めではあるが、ホールにこもる熱が下がることを知らない。デビュー以前からの彼を知る故郷の友人、知人もいるに違いない。ラジオのリスナーとして悲しい時、苦しい時、ひたすらみのやの声を頼りに生きている人々も大勢来ているだろう。
そして何よりみのやの「歌」に求めるモノがたくさん集まっているのだ。
その中には11月4日に戦力外通告を受け、二軍コーチのオファーを断っても現役続行をあきらめない、日本ハムファイターズ木田優夫投手の姿もあった。みのやの「傷ついた翼」を公式戦に登場する時のテーマソングにしていた木田。みのやは彼に向って思いのありったけでこの曲を歌い上げた。震えるほどの感動がホールを満たした瞬間だった。
この日は今年6月にリリースした最新アルバム「百の言葉 千の想い」からの曲を中心に、20曲余りを文字通り熱唱。以前、アルバムリリース直前にインタビューした時、コンサートやラジオを通じて、ステージからあるいは電波に乗せて届ける言葉や気持ち以外にも、伝えきれないすべての想いがこめられたアルバムではないかとの問いに大きく頷いていた彼を思い出す。だからこそ「聞きたい曲、全部に応えられなくてごめんな!」と言いながら、一つ一つの曲に魂を込めて大切に歌う姿に胸打たれる。そして寄せられる思いのただ一つももらすまいと、どんな小さな拍手も聴き逃さない。この大男は強靭な繊細さで人々の心をすくい上げる。そして人々の求めに応じ、想いに報い、気持ちに寄り添う、そのすべてを「歌」で成し遂げようとする。だからみのやの「歌」は真っすぐにこちらへ走ってきて、胸の奥に熱いモノを置いて行くのだ。
30数年前、初めて「白い嵐」を聞いた時から、走り続けることをやめない彼を見て来た。いい時ばかりではなかったことも、今の彼には負の財産ではなくなっている。恋愛だけでなく、人生や家族、故郷、友人、彼の歌からは大きな愛があふれ出て、とどまることを知らない。人に勇気を、夢を、生きる力をと、声の限りに届けようとするみのやは、「歌」の持つ本来の力を一番真摯に表そうとしている、まぎれもない歌手なのだ。
みのや雅彦。51歳。ゴールはまだ見えない。
(文:音楽ジャーナリスト 内記 章:2012年11月13日)
「今この人の話が聞きたい」第2回に、みのや雅彦氏の
インタビュー動画が公開されています。あわせてご覧下さい。
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